生誕100年「ポール・モーリア」いまだ褪せない楽曲の魅力とは 大ヒット曲「恋はみずいろ」に秘められたエピソード

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 今年は、ポール・モーリア(1925~2006)の生誕100年である。おそらく、その名を知らない日本人は、いないであろう。フランスの作・編曲家、指揮者にして、イージーリスニングの巨匠である。《恋はみずいろ》《オリーブの首飾り》《涙のトッカータ》《蒼いノクターン》……曲名は知らなくても、ある年代以上で、これらを聴いたことのない日本人は、いないはずだ。

 いままでに全世界で4000万枚以上のアルバムを売ったといわれる。特に日本での人気はすさまじく、そのうちの約1500万枚が日本で売れ、来日コンサートは約1000ステージにおよんだ。公式ファンクラブができたのも日本が世界最初だったという。しかも、晩年の1993年になって、長年所属していたフィリップス・レーベルとの関係が悪化するや、日本のポニー・キャニオンに移籍する。それほどの親日家だった。

 そろそろ没後20年が近いが、日本での人気が衰える様子は、まったくない。数年おきにベストCDが出るだけでなく(日本のファン人気投票で選ばれたベスト・アルバムも出た)、今年は“まぼろしの音源”を含む新編集アルバムも出るという。

 それどころか、7~8月にかけて、オリジナル楽譜を使用した、遺族公認の「ポール・モーリア“ラヴ・サウンズ”オーケストラ」コンサートが開催されるのだが、すぐに追加公演が発表される人気である。しかもこのコンサートの指揮は、いままでに東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団をはじめ、東京吹奏楽団などでも活躍している、クラシック界の佐々木新平である。

 いったい、なぜポール・モーリアは、こんなに長く人気を保っているのだろうか。その音楽の秘密は、どこにあるのだろうか。

ミレイユ・マチューのデビュー曲を手がける

 まず、ファン以外にはあまり知られていないと思われる、ポール・モーリアの経歴を簡単に紹介しよう。

 ポール・モーリアは、1925年3月4日、南仏のマルセイユで生まれた。幼少期から、音楽好きだった郵便電報配達人の父にピアノを教わり、あっという間に身につけてしまう。10歳で、マルセイユ・コンセルヴァトワール(現ピエール・バルビゼ音楽院)に入学。ピアノやソルフェージュで1等賞を獲得する。16歳で卒業後、音楽の道に進もうとするが、不安定な職業だからと父の許しが得られず、PTT(郵便電報電話局)に入り、父とおなじ配達人の職に就いた。

 だが、音楽の魅力から逃れることはできなかった。配達人をつとめながら、友人たちとアマチュア・ジャズ・バンドを結成し、コンテストなどで名を売る。そして18歳で、劇場やキャバレーなどのピアニスト兼アレンジャーとして独立するのだ。

 終戦後、ポールは、フランク・プールセル・オーケストラの代理ピアニストに採用される。のちに、日本で、FMの長寿番組「JET STREAM」のテーマ曲となる《ミスター・ロンリー》で知られるようになる名匠の楽団だ。

 この楽団でポールは、ある楽曲を知る。かなり古い曲のようだ。当時は作曲者不明だったが、曲の魅力を忘れられなかったポールは、後年、老人ホームに入居していた作曲者ガストン・ローランを探し出し、正式許諾を得て編曲し、発表。それが、日本で突出した人気曲となる《涙のトッカータ》である。原曲は、1950年に録音されたピアノとストリングスのムード音楽だった。

 その後、人気シャンソン歌手、シャルル・アズナブールの伴奏ピアニストを経て、1965年、フィリップス社と契約。「ポール・モーリア・グランド・オーケストラ」を結成。ムード・ミュージックのアルバムを発売し、人気を得る。

 そのころ、ある女性新人歌手のデビュー曲をつくってくれないか、との依頼が来た。その歌声に惚れこんだポールは、彼女のために、一夜で曲を書き上げる。それが名曲《愛の信条》。うたったのは、「エディット・ピアフの再来」とまで称され、フランスの国民歌手となる、ミレイユ・マチュー。ポールはしばらく、彼女の公演の編曲・指揮もつとめることになる。

 こうしてポールは、いくつかの楽団やアーティストのもとでピアノ・編曲・指揮をつとめながら、着実に足跡を刻んでいった。そして1968年、ついに全世界的な大ヒットを生み出すのである。

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